DVは「魂の殺人」である。DV夫から逃れるにはどうするべきか?被害の実態と対策
連日ニュースで話題になってる、千葉県野田市のマンションで小学4年の栗原心愛さん(10)が父親の勇一郎容疑者から虐待を受け死亡したという痛ましい事件。
そして心愛さんと同じく夫のドメス ティック・バイオレンス(DV)の被害者だったはずの母親であるなぎさ容疑者の逮捕は、DV被害者である女性の間に衝撃を与えた。
SNS上では「子供が唯一頼ることのできるはずの存在が母親なのに…」「子供を連れてなぜにげることをしなかったのか」などといった母親に対する非難の声が集まっている。
しかしながら、なぎさ容疑者の「主人と一緒になって叱責してしまった」「娘が暴力を振るわれているときは、自分は被害に遭わずに済むと思い、仕方がなかった」という供述から感じ取れるように、長期間に渡ってのからだや心への暴力により、じわじわと自尊心を傷つけられ、恐怖を植え付けられた被害者は「逃げる」という誰しもが思い浮かぶ簡単な選択しすらなくなってしまう。
これは一種の洗 脳のようなもので、どうしようもないものなのである。
「加害者の世界」に囚われる被害者
なぜ逃げなかったのかと被害者を攻め立てる前にまず、DVというものはとても特殊な力関係の上で行われていることを理解してほしい。
DVは一概に、身体的暴力だけではない。性的暴力、精神的暴力、経済的暴力、社会的暴力など、さまざま暴力を総括してDVという。
そして、DVが起こる場合、加害者はこのような暴力を幾度となくふるい、恐怖を与えること で被害者の「安全感」をまず奪う。
その結果、DVが起っても被害者の身の安全や精神的に安心できる場所ですらDV加害者が暴力をもってどうにでもコントロールできる状態を作り上げる。
このように、加害者は「安全感」を奪うことで被害者を自分の意のままにコントロールできるようにしたうえで、被害者を支配していくのである。
このようなゆがんだ関係性に置かれると、支配される側の人間は自分の「安全」を握っている支配者を「常に見ておかなくてはいけない」という考えに駆られるようになる。
そして加害者の顔色を常にうかがい、ご機嫌を取らなければいけなくなってしまうのである。もはや洗脳に近い状態といっても過言ではない。
被害者にとって「加害者から逃げる」行為は「支配者に歯向かう」という認識になってしまうのである。安全をコントロールしている人間に歯向かうことは被害者にとって、とても危険であると感じるようになる。
さらに暴力をふるいながらも時として、とても優しい一面を見せる加害者もいる。こういった場合は暴力と優しさをアメとムチのように使い分けることで混乱させ、加害者を怒らせた被害者が悪いというような関係を作り出すことで被害者に罪悪感を抱かせるようなタイプもいる。
――このようなことから、DV加害者から逃げなかった被害者にも非がある、といった意見は決してそうではないということを理解していただけただろうか。
「いつDVがまた起こるか」わからない環境で、まともな精神状態を保てるはずがない。DVを経験したことのない人には考えられないかもしれないが、それだけ被害者の心には大きな傷とトラウマが残るのである。
被害者を減らすための対策
以前はDVに対して腰の重かった警察も、DV防止法が2001年に設立されてからは対応は変わっていった。そして被害者支援を行う被害者支援員というものも存在する。彼らと警視庁が連携を取り、さらにそこに民間団体も協力して連携をとっていくことが重要となる。
三者それぞれに異なる役割だが、根底にある思いはみなDV被害者を支援したいということ。ただただ優しく被害者に声をかけ、そばで寄り添って背中をさすってくれるような人が警察官と別にいた りすると、被害者も話しやすいのではないか。てくれたり、そばにいてくれる人っていう、しゃべりやすい民間団体の人が間に入ることで、被害者が話しやすい環境を作れるのではないか。
さらに加害者に対する働きかけも重要になるのではないか?
できれば日本も海外のようにDV加害者プログラムの基準を作り、警視庁の力を借りて導入できれば状況は変わるのではないかと考える。
「DVは魂の殺人」
地方公共団体などにDV専門の窓口があるが、むしろ電話をすると自動的にDV専門の部署に集約されるシステムを構築するのが最も望ましい。
友人でも、家族でも、被害者の閉ざされた心が開くような環境が必要である。
DVは魂の殺人である。
緩慢的に人間としての尊厳を奪われ、生きる意味をも奪ってしまう犯罪なのだ。今回のように悲しい事件を二度と繰り返さないためにも、被害者は勇気をもって現状から逃げ出し、人間らしい生活を取り戻してほしいと心から願う。
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