これはごく普通の夫婦が、迷い・不安・葛藤の中で下した大きな決断の話
“米テキサス州オースティンに住むオモボラ・ゴードンさん(25)に体重3316グラムの男の子、オジー君(Ozzie)が誕生したのは2018年10月1日のことだった。オモボラさんは妊娠中に「誕生しても長くは生きられないだろう」と医師に言われたものの、「この子はファイター。絶対に生き抜く」と信じて出産した。オモボラさんが“奇跡の子”と呼ぶオジー君は、もうすぐ1歳4か月を迎える。『The Sun』『Mirror』などが伝えた。
https://news.livedoor.com/article/detail/17739252/引用”
妊娠20週の検診で医師から―「小頭症か無脳症で、頭蓋骨の一部が欠損しており、そこから脳がはみ出ている。脳がきちんと発達していない可能性が高い」―と告げられ中絶を勧められたが、オモボラさんと夫のチェコタさんは「産まれてみないことには分からない。この子の誕生までは命を育もう」と決意し、頑として首を縦には振らなかった。
※オースティン…アメリカ合衆国のテキサス州。
1930年代にコロラド川の開発によって家具や煉瓦、食料品、製油、皮革などの工業が発展した。また、1940年代に軍事産業も成立した。
顕著な発展を支えているのがIT産業であり、産学連携の元、目覚ましい経済成長と人口増加を誇っている。郊外を含め、周辺は丘陵地が多いためシリコンバレーにあやかってシリコンヒルズと名乗っており、サムスン電子が全米最大の拠点としているほか、デル、インテルなどの企業が拠点を置いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/オースティン_(テキサス州)―wikipediaより
このご夫婦の決断は、決して易いものではなかったということは、間違いない。
ただし、この決断にはきっと賛否両論があるだろう。
「このご夫婦は、きっと素晴らしい決断をした」
「わが子の生命力を信じる気持ちに共感できる」
という意見もあれば一方では、
「産まれてきても、苦しい思いをさせるのはかわいそうではないか。」
「将来のことを考えて、辛いことが目に見えているのに」
等の意見があるのも、頷ける。
人生は選択の連続
人は葛藤の中で最善を選び、選んだものからもまた、選び続ける。
今回はこのご夫婦の実話を例にあげさせていただいているが、
このご夫婦がオジー君を産むことを決断した後も、当然それで終わりではない。
こんな葛藤がやってきて、また道を選んでいくことになる。
“一方で、夫婦はオジー君の死を見通した‟緩和ケア”の準備を進めることに同意し、自宅から1時間離れたセント・ジョン・メディカルセンターの医師と「誕生後にどのようなケアをするか」について話し合いを進めていた。オモボラさんはその時の心境をブログにこう綴っている。
https://news.livedoor.com/article/detail/17739252/引用
―「安らかに死を迎えさせるために何ができるのか…。そんなことを話していても、私の中では『この子はきっと生きてくれる。闘ってくれる。だって私の子だもの。緩和ケアなんて必要ない』と思っていたの。もちろん不安でいっぱいだったけど、私は『きっと大丈夫』と自分に言い聞かせ、祈るしかなかった。」―
このご夫婦は、「産む決断」をするまでにも既に苦しい葛藤があった。
それは、選択の後に待っているものが何なのかを予測していたからだろう。
だからこそ、産んだわが子の先を考え、色々な可能性を加味した上で、
何が最善なのかを考えているのではないだろうか。
数ある選択の中で軸となるものは、
あなたが”何を信じたいのか”
選択の連続で、何が正しいのか?と言うのは、
夫婦の言う通り、「なってみないとわからない」というのが答えではないだろうか?
これは、生死という枠に留まらず、
殆ど全ての物事に当てはまるのではないだろうか。
予測を立てることはできても、
「本当にそうなのか?」ということは、選択が過ぎた後でしか答え合わせができない。
先ほど夫婦の決断に対する意見としてあげた賛否両論も、どちらが100%正しい、ということは、
誰も言い切れないのではないだろうか。
ただしここで伝えたいのは、何が正しくて、何が間違っているのか?ということではく、
人が”何を軸に選択を行っているのか?”
つまり、何を信じて、または何を信じたいと思っているか?で決まって来る。
ということではないだろうか?
その軸というのは、人によっては宗教であったり、
哲学であったり、誰かの教えであったり、伝統であったり、何かの基準となるような物がわかりやすい例だ。
オモボラさんの心境のように、
オジー君の産まれてきた意味や、生命力を信じたからこその
「産む」という選択だったに違いない。
1つの物事に対しての考え方は人それぞれである。
それは何がその人の考えの基準になっているかの違いの様に思う。
その人自身がその物事を目の前にした時にどう捉え、何を信じるかによって、
取る選択や行動が変わるのではないだろうか。
今回は「生死の選択」というケースをご紹介したが、
きっとどんな物事にも色々な見え方がある。
一個の物の見方に固執してしまう人は、きっとこの世の中に息苦しさを感じていることと思う。
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